「ワークショップ時代」と文化芸術におけるファシリテーション

加島卓

ワークショップとは?

社会学者の牧野智和によると、日本で「ワークショップ」という言葉が広く使われるようになったのは1990年代から2000年代にかけてである。まちづくり、環境教育、演劇、美術、心理療法、社会教育や学校教育など「さまざまな文脈で行われていたさまざまな実践」がワークショップという言葉で束ねられ、「活動の意義や問題点、解決策を探る思索やさらなる実践がまとまったかたちで検討」されるようになったのが1990年代だという(1)

こうした動向を整理した中野民夫の『ワークショップ』(岩波書店、2001年)は、2000年代以降のワークショップ論の基本文献である。中野によると、ワークショップとは「先生や講師から一方的に話しを聞くのではなく、参加者が主体的に論議に参加したり、言葉だけでなくからだやこころを使って体験したり、相互に刺激しあい学びあう、グループによる学びと創造の方法」である(2)

このエッセイではワークショップが双方向的なやりとり、つまり相互作用(インタラクション)を重視している点に注目したい。そこでまずはワークショップがなぜ相互作用を重視しているのかを確認し、次に現状への批判的論点を確認し、さらに相互作用を促すファシリテーターについても確認したうえで、最後に文化芸術におけるファシリテーションについて雑感を述べたい。

ワークショップの制度化

それでは、なぜ相互作用が重視されるのか。社会学なら次のように考える(3)

相互作用の重視は、1970年代以降の社会傾向の一つである。その背景には、相対的に豊かになった人びとのニーズに対して、行政や専門家が十分には対応できなくなったという事情がある(社会の個人化)。そこで注目されたのが、地域住民や市民ボランティアである。目の前に困っている人がいるならば、行政や専門家の手続き主義的な対応を待つのではなく、地域住民や市民ボランティアで相互に助け合おうというわけである。

こうしたことから、相互作用は行政や専門家といった「上から」の対応への批判として意味があったと思われる。そしてこのような対抗運動的な意味を持つ「下から」の実践として、相互作用を重視するさまざまなワークショップが注目されるようになった。

ところが2000年代になると、この「上から」と「下から」の関係に変化が見られるようになった。行政は都市計画やまちづくり、文化振興などにおいてワークショップを取り入れ、地域住民や市民ボランティアを積極的に活用するようになった。タウンミーティングの開催やパブリックコメントの募集、市民参加型の公募や指定管理者制度の導入なども関連した動きである。

これらは「下から」の対抗運動的な実践、つまりオルタナティブであることに意味があったワークショップが「上から」の制度に組み込まれた状態だと考えられる。住民が行政の意志決定プロセスに参加できるようになり、市民ボランティアが公共施設などで活躍できるようになった2000年代は、相互作用を重視するワークショップの制度化が進んだと理解することができる。

このように考えると、相互作用を重視するワークショップの背景にあるのは、行政と住民、専門家と市民、そして住民や市民同士の関係性の見直しである。なんでもかんでも行政や専門家に任せるよりも、地域住民や市民ボランティアを活用すれば、多様なニーズに柔軟に対応できる場合もある。ならば、住民や市民の相互作用を促す役割に行政や専門家は徹すればよいのではないか。このようにして相互作用を重視する雰囲気が生まれ、そこでの新しい関係性は協働(パートナーシップ)と呼ばれ、協働のための「場作り」や「ファシリテーション」が注目されるようになったのである。

ワークショップ時代

こうしたワークショップの制度化、すなわち協働は「小さな政府」、または民間の経営手法を行政に導入するNew Public Managementと相性がよい。たとえば、行政は民間のコンサルタントに多くのタスクを外注するようになり、公共施設では指定管理者制度や市民ボランティアを積極的に導入するようになった。

こうした現状は「新自由主義」的だと批判されることがある。たとえば、協働を動員の手段と捉え、やりがい搾取やコストカットによるサービスの低下を問題視することである。こうした批判は部分的には正しく、改善が必要な現場も少なくない。しかしこうした批判に目もくれず、学校教育やまちづくり、そして芸術振興の現場では「みんな」を集めたワークショップが積極的に導入されているのも事実である。また、そうしたワークショップの実施報告書が膨大に書き残されてもいる。

こうした現状は「ワークショップ時代」と表現できるかもしれない。ワークショップ時代とは、行政や専門家だけでなく、地域住民や市民ボランティアもそれぞれに知識を持ち寄り、社会のさまざまな意志決定を行う現代社会を表している。多くの人びとに参加を促すワークショップ時代は、全体を俯瞰して整理するのが今まで以上に難しい。あえていえば、誰が何をどのように主導しているのかが特定し難いまま、さまざまな意志決定が行われるのがワークショップ時代の特徴である。

ファシリテーターへの注目

ワークショップ時代に重要な役割を担うのが「ファシリテーター」である。先述した牧野によると、ファシリテーター論はワークショップ論と並んで1990年代に議論が積み重ねられ、「プロセスに中立的に関わり、対等で平等な関係づくりと共同作業ができるように、また共同作業の成果と個々人の学びがより豊かになるように、状況に応じた適切な支援を行っていく存在」がファシリテーターと呼ばれるようになった(4)。教師や専門家と異なり、ファシリテーターはワークショップ参加者の相互作用を促す役割なのである。

組織開発が専門の中村和彦によると、ファシリテーターによる促進は①ラーニング、②タスク、③リレーションの三つに分類できるという。①ラーニングは「体験を通じて気づきを得ることや学ぶこと」の促進、②タスクは「課題解決や合意形成」の促進、③リレーションはメンバーの「関係性」の構築を目指すものである(5)。たとえば、作品制作などアート系ワークショップは①ラーニングと③リレーションを組み合わせた活動、公共施設のあり方などを決めるまちづくり系ワークショップは②タスクと③リレーションを組み合わせた活動、と考えられる。

そのうえで悩ましいのは、アートによるまちづくり系ワークショップのファシリテーションではないだろうか。というのも、アート系ワークショップでは参加者一人ひとりの違いを尊重するが、まちづくり系ワークショップでは参加者で集団的な決定を行う場合があるからである。ここには個々人の考えと集団の決定をいかに調停するのかという難題が含まれている。

そのためか、実際には事前にワークショップの方向性をある程度調整し、そこを目指して議論を進行できるファシリテーターが選ばれる場合がある。また、クライアントの意向を汲んだコンサルタントにファシリテーションが外注される場合もある。ワークショップには多様な人びとの参加が促されるが、実は誰もがファシリテーターを担えるというわけでもない。参加者の相互作用を重視するといっても、相互作用をどう整理すればよいのかは誰かが考えなくてはならないのである。

ワークショップ時代の文化芸術におけるファシリテーションについて

私自身は、2020年オリンピック・パラリンピック東京大会のエンブレム取り下げおよび再選考の分析を通じて(『オリンピック・デザイン・マーケティング:エンブレム問題からオープンデザインへ』河出書房新社、2017年)、特に専門家と市民の関係に注目してきた。それを踏まえ、最後にワークショップ時代の文化芸術におけるファシリテーションについて、三つほど雑感を述べたい。

一つ目は、ワークショップ時代において専門性と大衆性の対立をいかに調停するのかである。専門家から見れば、市民参加にしないほうが表現の質をコントロールすることができる。他方の市民から見れば、専門家による表現が多くの人に受け入れられるとは言い切れない。多様性を肯定する現代では、専門家が市民を説得できない場合もあり、その場合はより多くの人が意志決定プロセスに関われる市民参加が採用されることになる。こうした時、専門家と市民の「あいだ」をいかに調停するのかは重要な課題となり、「誰がファシリテーターだったのか?」が調停において重要な意味を持つことになる。

二つ目は、ワークショップ時代においては公式の市民参加とは別に非公式の市民参加もありえることである。公式の市民参加は行政のプロモーション素材となり、学校教育などとも関連づけられ、新聞やテレビで報道される。そのためか、公式的な市民参加のファシリテーションは予定調和になりやすい。これに対して、非公式の市民参加は社会運動や二次創作、炎上なども含まれ、賛否両論の意見が噴出する。あえていえば、これらは対抗運動的なワークショップに近く、主張が明確なアクティビストが実質的にはファシリテーターとなるのではないか。

三つ目は、ワークショップ時代においては公式の報告書とは別に非公式の記録が残される点である。非公式の記録には、公式の報告書には書かれない距離感や他にもありえた可能性が残される。もちろんそこには偏りや思い込みが含まれている場合もあるが、重要なのは市民参加をめぐって複数の意見がどのように並立していたのかを後でも確認できるようにしておくことである。あえていえば、非公式の記録はサブカルチャー的な性格を帯び、そうした記録が多ければ多いほど、私たちは他にもありえたかもしれないメインカルチャーのあり方を構想できるようになると思われる。

先述したように、ワークショップ時代の特徴は誰が何をどのように主導しているのかが特定し難いまま、さまざまな意志決定が行われる点にある。こうしたなかで重要な役割を担うのがファシリテーターであり、実はそのファシリテーター選びが、専門性と大衆性の調停、市民参加のあり方、そして記録の残り方に大きく関わっていると思われる。

こうしたファシリテーターをリーダーシップの一段ずらしにすぎないと思うのかどうかは、評価が分かれるところであろう。しかし少なくとも、別のファシリテーターであれば別の結論が導かれるのかもしれない。こうした想像力を持ち続けることが、「正解」のないワークショップ時代の私たちには求められているように思う。

  • 1 —— 牧野智和「ワークショップ/ファシリテーションはどのように注目されてきたのか」、井上義和・牧野智和(編著)『ファシリテーションとは何か:コミュニケーション幻想を超えて』ナカニシヤ出版、2021年、pp.79-85a
  • 2 —— 中野民夫『ワークショップ』岩波新書、2001年、p.ii
  • 3 —— 加島卓・元森絵里子「ワークショップ時代の統治と社会記述」『年報社会学論集』(第34号)関東社会学会、2021年、pp.29-36 https://www.jstage.jst.go.jp/article/kantoh/2021/34/2021_29/_pdf
  • 4 —— 牧野智和「ワークショップ/ファシリテーションはどのように注目されてきたのか」、井上義和・牧野智和(編著)『ファシリテーションとは何か:コミュニケーション幻想を超えて』ナカニシヤ出版、2021年、pp.87-90
  • 5 —— 中村和彦「ファシリテーション概念の整理および歴史的変遷と今後の課題」、井上義和・牧野智和(編著)『ファシリテーションとは何か:コミュニケーション幻想を超えて』ナカニシヤ出版、2021年、pp.93-98

加島卓(かしま・たかし)
1975年生まれ。東海大学文化社会学部広報メディア学科教授。専門は、メディア論、社会学、広告史、デザイン史。著書に『〈広告制作者〉の歴史社会学:近代日本における個人と組織とめぐる揺らぎ』(せりか書房、2014年)、『オリンピック・デザイン・マーケティング:エンブレム問題からオープンデザインへ』(河出書房新社、2017年)

2023年3月31日 公開