「アート」は解放と抵抗の土壌となりうるか

ドクメンタ15の反ユダヤ主義問題から「インクルージョン」を考える

三上真理子

ベルリンのヴァイセンゼー美大の移民背景を持つ学生が美術教育での人種差別に声を上げるべく創設したコレクティブ foundationClass による「THIS IS MY VOICE LISTEN」がリズミカルに鮮やかに力強く響く。Installation view foundationClass collective at Hafenstraße 76, photo: Mariko Mikami

ドイツ西部の地方都市カッセルで5年に1度、100日間に渡り開催される世界最大級の現代美術フェスティバルとして名高いドクメンタ(documenta)(1)。2022年に実施されたドクメンタ15では、1955年から実施されてきた同芸術祭史上初めて、アジアからコレクティブである「ルアンルパ」がアーティスティックディレクター(芸術監督)を務めた(2)。西欧が牽引してきたこれまでのキュレーションや芸術祭の枠組み、そして「コンテンポラリーアート(同時代美術)」という概念そのものに対する問題提起をはらんだディレクションは、美術関係者だけでなく、多くの一般市民の注目も引きつけた(3)

  • 1 —— ドクメンタはその回ごとにアーティスティックディレクター(芸術監督)が選出されるが、その運営を担う事務局は、カッセル市とヘッセン州を株主とし、連邦文化財団の財政支援を受けている非営利組織の「ドクメンタ・フリデリチアヌム美術館(documenta und Museum Fridericianum gGmbH)」である。過去のドクメンタのウェブサイトはここから閲覧できる。英独両言語で入手できる資料は英語を優先して掲載する。なお本稿におけるウェブ記事の最終アクセスはすべて2023年6月10日である。
  • 2 —— ルアンルパ(ruangrupa)は、アジア通貨危機やスハルト退陣等を背景に2000年にジャカルタで結成されたコレクティブ。なおアジアや非西洋という言葉は曖昧で、西洋で教育を受けそのまま西洋を拠点にする人々や、アジアで西洋化された教育を受ける人々も多く、地理的区分で特定することは(とりわけ近代以降)ますます困難になっている。
  • 3 —— ドクメンタ15のプレビューのレポートは拙稿「時代の転換点に立ち、大きく歴史をゆるがすドクメンタ15。西洋型アートからの脱却と反ユダヤ主義問題をめぐる現状とは。」(boundbaw、2022年7月8日)も参考のこと。

大型芸術祭の多くがそうである(あった)ように、ドクメンタにおいても、初期はアーノルド・ボーデ、そして中期にはハラルド・ゼーマンというカリスマ性のある「スターキュレーター」個人を頂点に据え、権限が集中する中央集権的な構造が取られてきた。そんなディレクターのポジションを、ルアンルパはコレクティブとして引き受けただけでなく、参加作家の選出方法において分散型の仕組みを考案した。まず、核となるアーティストコレクティブを仲間に迎え、さらにそのコレクティブが他のアーティスト個人やコレクティブを招待できるようにした。その結果、参加アーティストは合計1500名以上に登り、大半は、グローバルサウスで活動するコレクティブとなった。また、これまでトップダウン式で行われていた資源の再配分の方法も、アーティスティックディレクションの範囲内で見直された。ジャカルタでの20年以上にわたる活動で培ってきたインフラと資源の循環をカッセルに実装すべく、参加アーティストの間で、資金、知識、設備に至るまで、重要な資源を分有する「ルンブン」(lumbung、インドネシア語で米倉を意味する)の概念が提唱され、実践された。こうした試みはドイツ、ヨーロッパ、北大西洋などいわゆる「西洋」を中心に拡張してきたドクメンタの制度や、コンテンポラリーアートの体系に新風をもたらすはずだった(4)

  • 4 —— 西洋の制度や仕組みへの批判は、その制度や仕組みが独占的に実装されているから生じるとも言える。一方で、インドネシアをはじめ東南アジア地域では、美術やキュレーションが西洋とはまったく別の生まれ方、発展の仕方をしており、アジアのコレクティブによる西洋への挑戦という見方は、西洋の教育を受けた人のものであることにも注意が必要である。参考:David Teh, “Who Cares a Lot? Ruangrupa as Curatorship”, Afterall journal, 30, 7th June, 2012.

ところが、ドクメンタ15は、反ユダヤ主義問題とその対応を巡り、開幕直後にドイツ国内外で大炎上を引き起こしてしまう。会期中、反ユダヤ主義的な表現に対する市民からの告発がソーシャルメディア上で繰り広げられ、その都度(とりわけドイツ国内)メディアを賑わせた。閉幕後も、美術関係者だけでなく、法学者、社会学者、歴史学者、心理学者などさまざまな専門家を巻き込みながら議論は続き、ワーキンググループを発足した大学もある(5)。そんな中、2023年2月には、ヘッセン州とカッセル市が委託した学術諮問委員会による『最終報告書』がドイツ語で発表された(6)。2023年3月には、2027年に予定されているドクメンタ16の選考委員会が発表され、次に向けた準備は着々と進んでいる(7)

しかし、未だに「もやもや」が払拭できない。感覚的でナイーブな話であることは承知しているが、ドイツで生活するアジア移民である筆者にとって、グローバルサウスのコレクティブの視点から提起された持続可能性やインクージョンに対するボトムアップの取り組み、そして圧倒的な力を前にしてもなお上がり続ける小さな抵抗の声は、勇気づけられるものばかりであった。しかし、当時のドイツ国内のメディアから伝わってきた熱量は、反ユダヤ主義問題に注がれるばかりで、あらゆる発言が狭義の政治問題に絡めとられてしまうことへの不安と諦念から、ドクメンタ15を評価する声が上げにくい空気感に包まれていた。一方で、日本をはじめ、ドイツ国外の美術関係者からは評価の声を耳にする機会が増えたが、ドイツ国内の緊張感や社会政治状況を見渡すものよりも、ドイツへの批判を滲ませるものが多かった。起きた出来事との心理的、地理的な距離感や、業界、立場により、これほどまでに評価が大きく分かれ、温度差があることは驚きでもあった。

ドクメンタ15において、せっかく「視点の複数化」が提案されたのだから、単数の視点に集約させるのでなく、その地域や業界固有の事情にも目をやりつつ、もう少しこのドクメンタが投げかけた問題について考えられないか。「アートではなく、ともだちを作ろう」という理念が、その理念と相容れないはずの結果を引き起こしてしまったことについて、単に一つのスキャンダルとして消費するのでなく、その背景をもう少し探れないか。本稿では、なぜドクメンタ15で反ユダヤ主義問題がこれほど炎上したのか、ドクメンタの政治的な歴史と、脱植民地の問題に触れつつ、グローバルとローカルの間を揺れ動く「国際芸術祭」に必要な異文化感受性について、日独の間でアートに携わる筆者の視点から考えていきたい。

反ユダヤ主義をめぐる一連の流れ

ドクメンタ15での反ユダヤ主義をめぐる一連の騒動について、日本語で読める記事も多数出ているが、改めて振り返っておこう(8)。ことの発端は、2022年1月、「反ユダヤ主義に対抗するためのカッセルの同盟」が、ドクメンタ15のアーティスティック・チームやパレスチナからの招聘アーティスト「The Question of Funding」の中にBDS運動支持者が含まれていることをブログ上で問題視し、それがヘッセン州の地元メディアで報道されたことから始まる(9)。BDS運動とは、イスラエルによるパレスチナに対する抑圧を終結させるために、ボイコット(boycott)、投資引き上げ(divestment)、経済制裁(sanctions)を呼びかける運動であるが、ドイツではとりわけ問題視されている。2019年にドイツ連邦議会は、BDS団体への資金提供と公共イベントの会場提供を禁ずるという議会決議を採択している(10)

  • 8 —— 杉田敦「【特別連載】杉田敦 ナノソート2021 #02:ドクメンタを巡るホドロジー(前)」(『ARTiT』2023年3月3日)は杉田氏が体験してきたドクメンタの歴史からドイツ国内の事情まで日本語で詳細に読める貴重な記事である。
  • 9 —— Bündnis gegen Antisemitismus Kassel(BgAK)の2023年1月7日のブログ記事で、Funding of Questionというパレスチナのコレクティブやルアンルパの中にBDS支持者と思われる人物や、パレスチナのハリル・サカキニ文化センターという過激な反ユダヤ主義者の名前を冠する文化機関のかつての関係者が含まれていることが指摘された。その後、このブログ記事の調査不足、認識不足を指摘する記事も相次いで発表された。
  • 10 —— 法的拘束力はもたないものの、ドイツ各自治体への影響力は少なくない。註56も参照のこと。ドイツ議会が採択した「BDS-Bewegung entschlossen entgegentreten – Antisemitismus bekämpfen」はDeutscher Bundestag, Bundestag verurteilt Boykottaufrufe gegen Israel(17. Mai, 2019)で閲覧可。

ドクメンタ15の反ユダヤ主義疑惑が、ドイツの全国紙レベルで取り上げられると、スポンサーでもあるドイツ連邦文化メディア庁(BKM)(11)やヘッセン科学芸術省(HMWK)等も見過ごせず、ドクメンタ側に勧告を出す(12)。それに対しドクメンタ側は、反ユダヤ主義疑惑を払拭させるべく「We need to talk!」と銘打ったオンラインの公開トークを企画、「反ユダヤ主義、人種差別、イスラム恐怖症の高まりの中で、芸術の役割と自由について」話し合う場を開幕前に設けようとした(13)。しかし、このイベントは直前でキャンセルとなる(14)。キャンセルの背景には、ドイツユダヤ人中央協議会のヨーゼフ・シュスター会長から、ドイツ連邦政府のクラウディア・ロート文化メディア担当官宛に送られた書簡、そしてヴァンダリズムがあった。

ユダヤ人中央協議会会長は、発表された公開トークのパネリストのラインアップは、反ユダヤ主義の撲滅に不利な方向に偏っていると、プログラムの内容を批判した(15)。これを受け、公開トークでの安全な発言空間が確保できないことへの懸念を訴えたパネリストもいた。同じ頃、展示会場の一つで、来場者のインフォメーションセンターになる予定のルルハウスに、何者かによってイスラム嫌悪とイスラエルとの連帯を呼びかけるステッカーが貼られる事件があった(16)。トークの実施による危害拡大が懸念され、トークは直前でキャンセルとなった。しかし以降も、アメリカで殺人の隠語として用いられる「187」や極右政治家を暗示する落書きがThe Question of Fundingの展示会場で見つかったり、差別的な発言を受けた参加アーティストが身の危険を感じて参加を辞退するなど、様々な形の暴力が報告された(17)

このように、2022年初頭から開幕前にかけて、すでに反ユダヤ主義疑惑は大小含むドイツメディアを賑わせていた。その都度、政治家や行政側は、ドクメンタ15に釘を刺してきたが、芸術監督側も事務局側も、「反ユダヤ主義、人種差別、過激主義、イスラム恐怖症、あらゆる形態の暴力的原理主義を断固として拒否する」と強調し、疑惑を真っ向から否定してきた(18)。行政側は、反ユダヤ主義的な作品がないかを外部専門家に事前調査させる提案を出したというが、ドクメンタ側は国家権力による検閲に当たるとして受け入れなかった。

それにも関わらず、プレビュー最終日に、屋外メイン会場のフリードリヒ広場に設置されたタリン・パディというインドネシアのコレクティブによる2002年の巨大なバナー作品《People’s Justice》に、SS(ナチスの親衛隊)と記された帽子を被り目を充血させた吸血鬼のような人物(19)と、モサドと記されたヘルメットを被りダビデの星のスカーフを身につけた豚鼻の兵士が発見されてしまう。いずれも古典的な反ユダヤ主義の視覚コードとしてドイツで認識されている表象である(20)。公式オープニングに出席するために現地を訪問していたドイツ連邦のシュタインマイヤー首相は、開会の挨拶の大半を費やして遺憾の意を表した(21)。芸術監督とドクメンタ事務局は、この巨大なバナーを急いで黒幕で覆う対策をとったが、一向に収拾がつかず、その翌日に作品は完全撤去された。タリン・パディによれば、このバナーは30年以上に渡るスハルト独裁下における国家暴力、政治腐敗、資本主義的搾取を描いたものであり(22)、オーストラリア、インドネシア、中国で過去に展示された時は問題にならなかったが、ドイツの文脈では不適切な表象であったとし、公式に謝罪をした(23)。反ユダヤ主義疑惑の作品を徹底調査する任務のアドバイザーとなった反ユダヤ問題の専門家メロン・メンデルは、事務局の無能さを理由に就任からわずか2週間足らずで辞任した。畳み掛けるように、ドクメンタ15に参加していた数少ないドイツの作家でかつ美術業界に多大な影響力を持つヒト・シュタイエルは作品撤去に踏みきった(24)。ドクメンタのザビーネ・ショルマン事務局長は責任をとって辞任した。

  • 19 —— ナチスとユダヤを結びつける風刺画は、とりわけ1960年代のソ連で流行し、その後東欧諸国、ソ連の影響を受けた左翼運動、アラブ諸国、イスラム諸国に伝播したことから、このSSのユダヤ人のイメージは、左翼運動あるいはアラブ系メディアからインドネシアのタリン・パディに伝わったものではないかと『最終報告書』内では説明されている(Abschlussbericht, 2023, pp.32-40. 脚注5参照)。一方で、ルアンルパのアデ・ダルマワンは、ドイツ連邦議会において本作品における反ユダヤ主義の視覚コードは、オランダの植民地主義者から輸入されたものであると説明をしている(documenta fifteen, Speech by Ade Darmawan, 6.7.2022)。
  • 20 —— 反ユダヤ主義の定義やその視覚コードと歴史について、『最終報告書』第2章で詳細な説明がある。
  • 21 —— Der Bundespräsident, Eröffnung der Documenta Fifteen, 18.6.2022.
  • 22 —— 参照:町村悠香「「ドクメンタ15」のタリン・パディ作品から考える対話の可能性・不可能性──アジア・日本の木版画運動の現在地点から」『美術手帖』2022年12月22日。
  • 23 —— documenta fifteen, Statement by Taring Padi on Dismantling Peoples’ Justice, 24.06.2022.
  • 24 —— シュタイエルが作品撤去した理由は「あの場にもう言論は成立しないと悟り(…)人種差別に反対なのか、反ユダヤ主義に反対なのか、どちらかを選ばねばならない状況自体がおかしいと思った」と後に語っている(Alexander Jürgs, “Warum Hito Steyerl ihre Kunstwerke abgebaut hat”, Frankfurter Allgemeine, 23.9.2022)
表象を隠されたタリン・パディの<People’s Justice>は黒いモニュメントのように見える。Installation view, Taring Padi <People’s Justice> at Friedrichsplatz, photo: Mizuki Kin

その後も、タリン・パディやThe Question of Fundingだけでなく、複数の作品が、専門家だけでなく市民の手によって、反ユダヤ的だとツイッターなどのソーシャルメディア上で告発された。事態を深刻に受けた行政側は、独自に専門家たちを集めた学術諮問会議を発足させ、展示作品のうち、反ユダヤ疑惑のある作品を徹底的に分析することを約束した(25)。こうして学術諮問委員会によって会期終了間際に撤去勧告を受けたのが、パレスチナのラマラとブリュッセルを拠点に活動をするサブバーシブフィルム(Subversive Film)の《Tokyo Reels》の展示である(26)

かつて中東戦争の戦火から逃れるべく東京に持ち込まれた20本の映像リールはデジタルリマスターされ、それらを独自に再編集した映像と合わせて、展覧会会場でインスタレーション形式として、また映画館でスクリーニング形式として公開されていた。親パレスチナの視点で描かれた映像は、「反ユダヤ的、反シオニスト的であり、イスラエル憎悪とテロリズム賞賛を助長する恐れがあり、それにもかかわらず、文脈付けがされていない」とされ、上映の中止が求められた(27)

  • 27 —— なお、同じ会場では旧植民地や難民の声が集められており、展示作品の関係性や導線を考えると、展示会場での視覚的な文脈は明らかだったと筆者は思う。
Installation view, Subversive Film <Tokyo Reels> at Hübnerareal, photo: Mariko Mikami

この勧告を受け、多くの参加アーティストたちは、事態の収拾のつかなさ、そして検閲のようなやり方に苛立ちを爆発させ、公開レターを全世界に向けて発表した(28)。BDS運動にかけて「Being Documenta is a Struggle(BDS:ドクメンタとは闘いである)」というポスターがあちこち貼られ、会場は政治闘争の場と化した。芸術監督チームと参加アーティストは上映の続行を主張、選考委員会兼アドバイザリーボードのメンバーたちは、引き続きルアンルパのディレクションを支援する姿勢を明らかにした(29)。当時暫定事務局長であったアレクサンダー・ファーレンホルツは、展示内容の決定はあくまでもキュレーター集団であるルアンルパに委ねられているとし、責任を回避するかのような発言がさらに炎上を呼んだ。

結果的に映画館での上映のみ中止となり、展覧会会場でのインスタレーションは続行されたものの、反ユダヤ主義を武器にドクメンタ15の作品撤去や中止を求める側と、それを人種差別的な悪意ある検閲として断固拒否する参加アーティストたちの対立は、最後まで平行線を辿った。止まない混乱を引きずりながら、疲弊と祝祭的な雰囲気が入り混じる中、100日間の芸術祭は閉幕を迎えた。そして閉幕から5ヶ月経った2023年2月に、学術諮問委員会による『最終報告書』が公表され、ドクメンタ事務局、芸術監督であるルアンルパ、そして反ユダヤ主義的な視覚コードを用いたアーティストの作品の問題がドイツの専門家の視点から詳細に分析されたのだった。

なぜここまで炎上したのか(1)
コロナ禍の反ユダヤ主義問題と綻びをみせる記憶の継承

展示作品やイベントに反ユダヤ主義疑惑がかけられたことはかつてのドクメンタでもあった。例えばドクメンタ10では、オープニングイベントとして実施されたエドワード・サイードのトークへの批判が起き、ドクメンタ12では、インティファーダの混乱によりパレスチナ唯一の動物園から逃げ出し、死亡したキリン「ブラウニー」の剥製が展示され、イスラエルの軍事攻撃を批判し、無垢な動物の死にパレスチナを重ね、同地を被害者としてのみ扱うことに反発が起きた。ドクメンタ14では、フランコ・ベラルディ(ビフォ)の「海辺のアウシュビッツ」という詩の朗読イベントが企画されたが、批判され中止となった(なお、ベラルディは別の形で登壇することになる)。しかしいずれも、ドクメンタ15ほどの騒ぎにはならなかった。なぜ今回、ドイツ国内で、これほど炎上してしまったのか。

真っ先に思いつくのは、近年のドイツにおける政治状況である。反ユダヤ主義に対する行政側の危機感は、2019年のハレで起きたネオナチによるシナゴーグ襲撃事件以降高まっている。2015年のシリア難民危機以来、外国人嫌悪やイスラム嫌悪も高まりを見せるが、2019年以降、ユダヤ系市民に対する犯罪は、人種差別や外国人嫌悪が動機の犯罪と一線を画すものとして政界でより重視されるようになった。2020年には新型コロナウィルスの流行で、ワクチンとユダヤ人を結びつける陰謀論が出まわった。反ワクチンデモやオンライン上の反ユダヤ的運動が増えたことで、反ユダヤ主義が動機の犯罪発生率が、2019年から2021年にかけて、2000件から3000件に急増したことは、行政側の警戒心を一層強めた(30)。2019年にドイツ連邦議会がBDS運動への制約を課す議決を下したことは先述の通りだが、逆にいうと、BDS運動がドイツ国内で影響力をふるう可能性がすでに高かったことを意味する。

文化芸術業界は、不安と対立を煽るような連邦議会の議決に対して疑義を呈した。なぜならBDS運動のボイコット対象にはアーティストや学者も含まれており、それを制約するということは、出自に対する差別であり、検閲であり、表現の自由、その根幹にあると信じられている民主主義に反するからだ。また、パレスチナ関連のアーティストや作品をドイツ国内で展示・上演する際には、膨大な事前調査や裏付けが求められることになり、その事務作業が増えることから、トラブルを回避したい文化機関は、結果的にパレスチナ関係のアーティストたちを呼べなくなってしまうという懸念も当然生まれた。そればかりでなく、反ナショナリズムの理念を掲げ、国境や地域の分け隔てなく文化芸術表現を扱う文化機関には、理不尽な国家暴力や国家権力への抵抗として、パレスチナに連帯を示す個人も少なくない。こうして2020年秋には、ドイツの複数の公的文化及び学術機関が中心となり、BDS運動には反対するが、反BDS運動にも賛同しかねるという立場を表明する「The GG 5.3:コスモポリタニズム・イニシアチブ」を立ち上げた(31)。しかし反対に対する反対は解決には繋がらず、イスラエルやパレスチナの作家の招聘のハードルが上がったのは間違いないだろう。

アンゼルム・フランケは、このイニシアチブのアドバイザリーであり、反ユダヤ主義疑惑で追い込まれたドクメンタ事務局へのアドバイザリーを務め、キャンセルとなったトークシリーズ「We Need To Talk!」でも司会を務める予定だったキュレーターであるが、彼自身はBDS支持者でないと前置きをしつつ、BDS運動が不当に受ける偏見を危惧している(32)。戦後70年以上に渡り、一国による軍事的占領が続く地域で抑圧され続けている人々の抵抗運動と、ホロコーストの動機は異なるのだから、BDS運動を、安易にナチス以降の反ユダヤ主義と結びつけることはできない。一方で、歴史を遡って分析すれば、そのどちらも、西洋列強を中心とする植民地時代の帝国主義に行き着く。反ユダヤ主義と人種差別が区別されずに語られることもあるポストコロニアルの視点も重視される現在、より繊細な分析とそのための言論の場が求められているのはいうまでもない。

  • 32 —— Anselm Franke, “On the Future of documenta: We’re witnessing old structures not wanting to die”, e-flux note, September 26, 2022.
天気、時間だけでなく政治にもローカルな視点が欠かせない。地下道に展示されたBlack Quantum Futurism によるポスターの一例。Public intervention of Black Quantum Futurism at Frankfurter Straße/ Fünffensterstraße, photo: Mizuki Kin

地政学的に、そして歴史的に複雑なイスラエルとパレスチナの状況を理解することはただでさえ骨が折れるが、更に悪いことに、メディアによって幾重にも歪められてしまうことがある。ベルリンの複合文化施設HKW(Haus der Kulturellen der Welt, 世界文化の家)は、ドクメンタ15開幕前に「ハイジャッキング・メモリー」という公開会議を開催した。イスラエル系もパレスチナ系も含む約40名の講演者がホロコーストの記憶と継承について意見を交わす稀有なイベントであった(33)。しかし英国に住むパレスチナの活動家であるタレック・バコーニが、パレスチナ人によるいかなる抵抗運動もヨーロッパでは即反ユダヤ主義と見なされてしまうことを批判する講演の中で、パレスチナを「イスラエルの心理劇が自作自演されるキャンバス」に喩え、「悪魔化したユダヤ人」という表現を使ったことが(34)、ホロコーストの生存者を親族に持つポーランドの講演者ヤン・グラボヴスキによって問題視され、数日後にドイツの保守系の日刊紙WELTに寄稿された。その論考は、バコーニの講演で使用された一部の表現やそれに賛同した聴衆を批判するものだったが、論者の手を離れドイツ国内外のメディアへと伝播する中で、徐々に形が歪んでいってしまう。当初は使用された表現が批判対象だったが、徐々にバコーニの出席や会議そのものの存在意義に対する批判に姿を変え、やがて北米のイスラエル左派ジャーナリストから、グラボヴスキの最初の批判自体が、批判されることになってしまう(35)

発話者、論者のセンセーショナルな言動が文脈から外されて一人歩きし、事態をより複雑に悪化させることは、ソーシャルメディアの時代にはより顕著だ。ある調査によるとドイツ国内で発行された主要新聞雑誌における「ドクメンタ、反ユダヤ主義」を含む記事の数は、2022年1月からドクメンタ15の会期開始前に既に852件あり、会期期間中は4432件まで膨れたという(36)。開幕前から既にドイツ国内でメディアフレーミングがされていた可能性を示唆している。

メディア上での炎上の原因を、ルアンルパやタリン・パディというドイツにとっての「他者性」に見る人もいる。ホロコースト関連の小説を執筆してきたエヴァ・メナセは、ジャカルタで20年前に制作されたバナーよりも、ハレでシナゴーグを襲撃したドイツの武装したネオナチの方が危険なはずなのに、前者の方が盛り上がったのは、ナチスの負の歴史と反省の義務を内面化させ、この国で反ユダヤ主義の存在を認めたくない高い道徳心を持つ人々にとって、反ユダヤ的視覚コードを持ち込んだ他者は許せざる対象で格好の餌食であったと指摘する(37)。ドイツとイスラエルの意識調査において、戦後80年たった今、負の遺産を清算しても良いと思うかという質問に、イスラエルの60%は思わないと回答しているのに対して、ドイツの49%は思うと答えている(38)。負の記憶継承に対して、政治、教育、社会、文化の様々な分野で積極的に取り組む戦後ドイツの姿勢は(39)、歴史修正主義者が幅を利かせる日本にとって学ぶところは大きいが、しかし、反省以外の選択が許されない潔癖な環境が、他者への不寛容さを産んでいるならば皮肉なことである。ナチス体制下の侵略戦争やホロコーストを中心とした過去の克服、そのための教育に積極的に取り組んできたこの国は、いまも大きく揺れ動いている。

  • 37 —— Eva Menasse, “Erregte Antisemitismusdebatte wegen der Dokumenta: Meint ihr das wirklich ernst?”, SPIEGEL Online, 29.6.2022.
  • 38 —— Bertelmann Stiftung, Deutschland und Israel Heute, 2022, Abbildung 14.
  • 39 —— 石田勇治『20世紀ドイツ史』(白水社、2005年)、川喜田敦子『ドイツの歴史教育』(白水社、2005年)ともに「シリーズ・ドイツ現代史」より。
Installation view of Sebastián Díaz Morales & Simon Danang Anggoro <Sleepers, from the serie Fragments>, 3 video-channel on monitors, 7min, 2022, photo: author

なぜここまで炎上したのか(2)
暴かれていくドクメンタの体質と体制

近年、ドイツ国内の他の芸術祭でも参加者の反ユダヤ主義疑惑によるスキャンダルはあったが、これほどまでの炎上にならなかったことを考えると、ドクメンタがいかに世界を代表するフェスティバルとして影響力を持っているのかがわかる(40)。覇権と化したドクメンタの歴史や体質に、火に油が注がれた背景を見る人もいる。

  • 40 —— 例えば、ドイツの旧植民地であるカメルーン出身で、現在ヨハネスブルクで教鞭を振るう歴史家アシル・ムベンベは、2020年にドイツ国内で影響力のある演劇祭ルール・トリエンナーレの講演に招待されたもの反ユダヤ主義疑惑とBDS支持者疑惑をかけられ、糾弾された。註56も参照のこと。

これまでも研究者やキュレーターにより、文化的に柔軟で寛容なコスモポリタンなドイツというイメージが、戦略的に作られてきたものであることは、たびたび分析、考察されてきたが、ドクメンタと政治の問題は、近年より一層注目されるようになった。2021年の初夏にベルリンのドイツ歴史博物館で開催された展覧会「ドクメンタ:政治と芸術」は、第1回目のドクメンタから第10回目までに焦点を当て、膨大な資料と緻密な研究によって、時代とともに変遷するドクメンタの政治性を裏付けるものであった(41)。ドクメンタの設立背景には、ナチスによって迫害され国外流出した抽象表現等を再評価し、西ドイツの文化的再出発を印象付ける目的があったことはよく知られている。しかしこれは、東ドイツの社会主義レアリズムの否定であり、反共産主義を掲げることであり、西側の政治世界に返り咲きをする思惑の現われに他ならない(42)。この展覧会は評判を呼び、覇権を握るほどに成長した巨大な芸術祭が自身の歴史を振り返ることを怠り、他の文化機関の研究員たちによって暴かれてしまったことを印象付けた。

  • 41 —— Raphael Gross et.al., documenta.Politik und Kunst, Deutsche Historisches Museum, Prestel, 2021.
  • 42 —— Lars Bang Larsen „Freiheitsglocke“, documenta.Politik und Kunst, 2021, S.108. なおドクメンタとアメリカの諜報機関であるCIAとの関連については、HKWでの展覧会「PARAPOLITICS」でも示唆されていたが、歴史博物館の展示カタログ収録Larsen氏の論考では実証ができていないと評価を留めている。Anselm Franke, Nida Ghouse, Paz Guevara, Antonia Majaca “Introduction”, PARAPOLITICS: Cultural Freedom and the Cold War, Haus der Kulturen der Welt and Steinberg Press, 2021, pp.13-17.

ドクメンタ10から15に焦点を当て、回を重ねるたびに、美術のための美術展と、政治志向の美学の間を往来しながら、過去の批判を体内に吸収し、巨大に成長したドクメンタを分析したオリバー・マーヒャートの『覇権マシン:ドクメンタXードクメンタ15』も2022年に再出版された(43)。キュレーションの観点から過去のドクメンタを分析する本書は、コンテンポラリーアートの精通者を読者層に想定しているだろうが、ドクメンタだけでなく万博など、巨額が動く世界規模の行事は、多くの利害関係者を惹きつけ、常に政治的であったし、そうあり続けているというマーヒャートの指摘は、広く同意されるものだろう。ドクメンタも、冷戦構造やヨーロッパ主義など、創設や運営の背後に、巨大なイデオロギーが蠢めいてきた。

  • 43 —— Oliver Marchart, Hegemony Machines, Neuer Berliner Kunstverein, 2022. これは2008年の『芸術領域における覇権:ドクメンタ10から12、そしてビエンナーレ化する政治』に新たに14と15への考察を加えたものである。

ドクメンタという芸術祭のマネジメントとその組織構造を問題視する声も多い。前節で見た通り、ドイツ国内で反ユダヤ主義への危機感が高まっていたにもかかわらず、ドイツ語メディアを日々見聞できたドクメンタ事務局側が、リスクを事前に予見し、対策を講じられなかったのはなぜか。渦中にいた元事務局長のショルマンは、アーティスティックディレクションとマネジメントの役割にその原因の一端を見ている。彼女は、ドクメンタという芸術祭の不可欠な要素としてアーティスティックディレクションとキュレーターの絶対的な自由を上げ、マネジメントの仕事は、プログラムへの責任ではなく、芸術チームがプログラムを実行するために技術的な自由を与えることであると繰り返し主張してきた(44)。「芸術の自由」のために、芸術監督の考えに従い、彼らがやりたいことを支援することが職務であるという考え方は理解ができる。事前に外部の専門家を招き出展作品に反ユダヤ主義的な表現が含まれていないかを確認する作業は、マネジメント側が保証する芸術的な自由と矛盾するため受け入れられないとすることもよくわかる。一方で、ドイツ国内の事情、そして文脈を理解してドイツ外部から来た仲間をもっとも身近で支援できる立場にいたのも、事務局であった。ルアンルパのキュレーションは分散型の組織を目指したが、それによって責任の所在が不明になってしまうリスクがつきまとうこと、しかしその構造に対して、芸術の自由を守るために口出しできないというマネジメント側のジレンマが浮き彫りになっただけでなく、ドクメンタ事務局自体に内面化されていた「自由でリベラル」というアイデンティティが、リスクマネジメントを阻み、自身の負の歴史の振り返りを困難にしていたことも、明らかになったのだ。

Installation view of Nino Bulling <Firebugs/abfackeln> at Hafenstraße 76,  photo: Mariko Mikami

なぜここまで炎上したのか(3)
脱植民地思想の潮流と実践に横たわる溝

そもそもなぜドクメンタ15の芸術監督にルアンルパが選ばれたのだろうか?2019年2月に発表された選考委員会の報道発表によると、地元コミュニティと国際ネットワークに基づきさまざまな人にアピールできるルアンルパのキュレーション案が全会一致で評価されている(45)。この背景には、ドクメンタの文化戦略、とりわけドクメンタ11を転換点とした以降の「コンテンポラリーアート」のキュレーションにおける脱植民思想の流れ、それを行政レベルで加速させた2017年以降の欧州における文化政策の事情という、脱ヨーロッパ・北大西洋中心主義という大きな潮流があったと考えられる。

脱植民思想の萌芽は、フランスのカタリーナ・デイヴィットが初の非ドイツ系で女性ディレクターとして選出されたドクメンタ10(1997年)以降、すでに見られるものだった(46)。大きな転換点となったのは、オクウィ・エンヴェゾーがディレクターを務めた2002年のドクメンタ11とされる。内容の詳細は控えるが、ヨーロッパ美術と植民地史の関係性に光が当てられただけでなく、ニューデリー、セントルシア、ラゴスなどでドクメンタ関連の公式なプログラムが実施され、西欧以外の都市が重要な役割を果たし、理論が美術の中でより力を持つようになった点で転換点だったと言われる(47)。そればかりか、これまでキュレーターに権限が集中していた構造を、アフリカや南米地域に造形の深い専門家6名を共同キュレーターとして正式に任命し、集団キュレーションの試みが実施された(48)。ドクメンタ級の巨大プロジェクトは、集団的な努力が常に必要であることが表明され、逆に個人が全世界のアートを調査できるものだという傲慢な発想では立ち行かないことが暗示された。独占的に存在していた都市や視点を、複数に解放し、脱西洋中心の姿勢を顕在させた。ドクメンタ11が生んだ大きな潮流は、翌年のヴェネチアビエンナーレなど、世界各地の国際芸術祭にも届き、ルアンルパの選出もこの大きな流れの延長線上に位置付けられよう。

  • 46 —— Marchart, op.cit. しかし「ドクメンタ10に参加した110人を超えるアーティストのうち、ヨーロッパと北アメリカ以外の地域出身者は10数人。もっともその大部分がイスラエルとブラジルのアーティストたちで、この国々はれっきとした西欧文化圏であるから、非西欧文化圏出身のアーティストはナイジェリアの1人とシンガポール、中国からそれぞれ1人のわずか3名であった」ことから西欧中心主義的だという批判も出ている。(参考:名古屋覚「ドクメンタ10」『アートスケープアーカイブ』1997年)
  • 47 —— Marchart, op.cit., p.12.
  • 48 —— 6名のキュレーターは、Carlos Basualdo(アルゼンチン)、Susanne Ghez(米国マサチューセッツ)、Serat Maharaj(南アフリカ)、Ute Meta Bauer(ドイツ)、Octavio Zaya(カナリア諸島)、Mark Nashである。

行政側の脱植民思想に対する近年の外圧の高まりも見過ごせない。現代のドイツ植民地と揶揄されたギリシアの首都アテネで同時開催されたドクメンタ14の閉幕から数ヶ月後、ブルキナファソではマクロン大統領によるスピーチが行われ、欧州の文化関係者を驚かせた。歴代フランス大統領として初めて、植民地時代に不均衡な力関係で文化財が不当に収奪されたことを認め、フランスにあるアフリカの文化財の返還に必要な条件を整えることを示唆する内容であった(49)。マクロン大統領は、セネガルとフランスの2名の研究者に文化財の来歴調査を依頼し、2018年11月には「アフリカの文化遺産に関する報告書:新しい関係性の倫理に向けて」、通称サール・サヴォワ報告書が発表された(50)。本報告書は、植民地時代から西洋とアフリカの不均衡な関係により、暴力的な方法で文化財が収奪され続けてきた歴史を振り返り、文化財の返還が求められた場合はそれに応じるべきであると、具体的な措置を提案している。

欧州各国の主に博物館関係者の中から反発の声も出ている。そんなことをしたら、欧州で見せる展示品がなくなることや、仮に返還したとしても、アフリカの旧植民地地域では、インフラ不足で貴重な文化財の維持管理が行き届かないのではないかという、植民地思想が滲む懸念も寄せられている。報告書の執筆者の一人ベネディクト・サヴォワは、ベルリン工科大学で教鞭を振るう来歴研究の第一人者であり、当然この流れはベルリンの文化関係者、そしてドイツ全土の博物館にも広がっていった(51)。2022年冬には、ドイツ外相がナイジェリアを訪問し、19世紀に英軍により略奪され、その後ドイツの手に渡った「ベニン・ブロンズ」と呼ばれるベニン王家(現ナイジェリア)のために作られたレリーフ20点が返還され歴史的な瞬間だと称えられた(52)。しかし、2023年3月の時点で、返還されたベニン・ブロンズは、ナイジェリアの大統領から王家の後継者の手に譲渡されたことが発覚し、新たな波紋をよんでいる。ナイジェリアの人々に民主的に一般公開されることを望んでいたドイツ政府の期待は敗れ、今後の文化財の返還の流れにブレーキをかける可能性もあると言われている(53)

Installation view, Atis Rezistans/ Ghetto Biennale at St. Kunigundis, photo: Mizuki Kin

このように、現場の文化芸術関係者だけでなく行政レベルでも脱植民思想を取り入れたいドイツにとって、2022年に実施されるドクメンタ15において、インドネシアのコレクティブをディレクターとして招くことは、ある意味では自然な流れだったかもしれない。しかし、ルアンルパはこの与えられた「覇権の席」に座ることを拒んだ。それどころか、仕組みを変えようとした。ミ・ユーが指摘するように、左寄りの美術批評家たちがドイツの官僚的な制度や態度を批判することは、構造そのものを造り(変える)よりも簡単だ(54)。グローバルサウスの人々は、制度を構築し、維持することがいかに重要かを、身をもって熟知してきたのだ。「ルンブン(lumbung)」、「ソバソバ (sobat-sobat)」、「ノンクロン (nongkrong)」というインドネシアの言葉と概念を、グローバル言語の英語に翻訳せずにそのまま用いたことは、既存の独占的な制度から逃れる方法の模索の表れだっただろう(55)。「アートではなく、ともだちを作ろう」というモットーは、旧来の「アート」では回収できない生活に密着した運動体を体現するものであっただろう。このヴィジョンは、ディレクターへの就任が決まった当初から一貫している。

しかし、ルアンルパのこうした姿勢は、自らの首を絞めることにもなってしまう。「アートでなく、ともだちを作ろう」というモットーは、一見インクルーシブで耳に心地がよく響くが、「ともだち」という線引きがどこかでされる時点で、エクスクルーシブに働いてしまうことがあり、今回のように敵対構造を生み出す可能性を秘めている。「どちらかを選ばなくてはいけないことは、おかしいと感じた」とヒト・シュタイエルを追い込み、作品撤去しかないと思わせた排除の力があった(56)。ルアンルパの方法論としてカラオケが喩えられることもあるが(57)、フリデリチアヌム美術館の裏で夜な夜な実施されるカラオケパーティーに入れることができれば祝祭的な雰囲気を共有できるが、入れなければどこか仲間外れにされた気持ちになるだろうし、そのどちらを選ばせる構造に違和感を感じる人もいるわけだ。自分と価値観の近い人たちと一緒にいた方が心地良いのは多くの人にとって当てはまるだろうが、「自分たちの価値観を共有できるならば、私たちのともだち」と読み替える事ができえるこのモットーを、ドクメンタという公共空間に持ち込むこと自体イデオロギーでもある。『最終報告書』では、「20世紀の歴史は、平和や友情という概念を無条件で信じてはいけないという事を教えてくれた。冷戦時代には、これらの言葉はあまりにも頻繁に誤用され、集団のイデオロギーは多くの国々で収奪、独裁、不正と結びついた」と指摘されている。戦後ドイツの譲れない道徳的価値観として反ユダヤ主義の撲滅が挙げられるが、この価値観を擁護することが、ルアンルパの価値観にとっては検閲や新植民地主義に当たるならば、そこで「ともだち」という響きは何とも頼りない。

一方で、既存のドクメンタの制度や構造に搾取されないこと、むしろドクメンタが自分たちの「旅」の一部となること、そのためには展覧会で何を見せるかという思考ではなく、誰と働きたいか、誰からインスピレーションを得たいか、そして誰から学びたいかという思考からスタートすることを主張してきたルアンルパにとって、どんな批判を受けようが、その目論見は達成したように思う。ルアンルパが、ドクメンタに象徴される西欧の制度に立脚し集約されるコンテンポラリーアートのフェスティバルに対して、ドイツをはじめ北大西洋諸地域で盛り上がるさまざまな「脱」(脱西洋、脱中央、脱殖民)よりも先に、そうした同時代的な流行とは別のルートで生まれた自分たちのキュレーションの方法、組織の構築の仕方、意思決定プロセスを持ち込み、異なる世界の成り立ちを示したことは、確かな足跡を残した(58)

  • 58 —— 西洋起源のキュレーションはコレクションを守るという意味であったが、そもそもコレクションがない、あるいはインスティトゥーションが整備されていない場合は、その起源は異なるだろう。
<Not Everything is Lumbung> at Friedrichplatz, photo: Mariko Mikami

なかったことにはできない。ではどこから始めるか

ドクメンタ15の評価を巡り、語り手の立場や時期によって、評価が大きく分かれること、それが政治、社会、歴史を背景に複雑に絡み合っていることが、改めて確認できたが、しかし、大きな問いが残る。そもそも、地政学およびイデオロギーのレベルで違いがある上で、制度を共に構築することは可能なのだろうか。惑星レベルでの政治を想像することは、可能なのだろうか。

炎上の直接のきっかけとなったタリン・パディのバナーは、ほとんどの来場者に見られることなく、撤去されてしまった。経緯の説明を記し、黒い幕のモニュメントとして置いておくことで、議論の場を生み出す可能性も残されずに。フリデリチアヌム美術館でのThe Black Archivesの展示で、黒人の人相学的特徴が描かれているところをグレーで覆い隠し表象をめぐる政治へ鑑賞者の想像を引き出そうとした手法が参考にされることもなく(59)。もちろん、フリードリヒ広場という屋外の目玉会場であり、入場料を払わずに誰でも24時間みることができる公共空間での展示は、ヴァンダリズムの懸念もあっただろう。しかし、隠そうが、撤去しようが、ソーシャルメディアやインターネット上でイメージが流通し、存在が完全に消えるということは、もはやない。一度誰かの手によって生み出され、そして消されたイメージは、サイバー空間を、人々の頭の中を、亡霊のように浮遊し続ける。起こってしまったことを、なかったことにはできないのだ(60)

  • 59 —— LAUREN TRESP, Documenta 15: What You Need to Know About the History-Making Quinquennial, Southwest Contemporary, 26.10.2022.
  • 60 —— 元ドイツ植民地であるカメルーンの歴史家のアシル・ムベンベ氏が文化財返還に対して繰り返し述べている言葉—植民者が略奪したものは物理的なものだけでなく知識など無形のものを含み「決して取り戻すことのできないもの」が想起される(Achille Mbembe, WILDE OBJEKTE, 2020)。なお、本稿では詳しく触れることができなかったが、ムベンベ氏も、反ユダヤ主義者でBDS支持者という疑惑にかけられ、ドイツ国内で影響力のある演劇祭ルール・トリエンナーレ2020への招待講演に対する反対運動が起きスキャンダルとなったが、新型コロナ感染症により演劇祭そのものが中止となり、その後議論は下火となった。ポストコロニアル研究における反ユダヤ主義と人種差別の扱いは今後も大きな課題であることは間違いない。
Installation view, The Black Archives at Fridericianum, photo: Mizuki Kin

そもそも一連のスキャンダルは誰のもので、誰にとっての解決なのか。自分の常識は他者の未知であり、逆もしかりである。この世の中に、同じ個体が誰一人として存在していない以上、そこには何十億通りの常識と未知が有象無象とある。絶対的な一つの答えなどない。けれど、共同体や国という個人を超えた力関係が複雑に積み重なった文化規範を生きる誰もが、他者の常識を少しずつ身につけ、内面化させる。当然のように相手にも同じような価値観を期待する。期待が満たされない時に不満が爆発し攻撃的になることもある。しかし、一歩立ち止まり考えてみれば、そもそも解決策に到達できる人など限られていることに気づく。解決案に飛びつく前に、あるいは批判する前に、解決のための情報にアクセスできない人がいることに、そこにまったく違う価値観の他者が存在することに、思いめぐらすちょっとした間が必要ではないか。

ドクメンタ15では、特権的な社会からは見えにくく、疎外された人たちの声があちこちに響いていた。「RomaMoMA」プロジェクトでは、シンティ・ロマの背景を持つ人々の作品が展示されていた(61)。ロマはナチス・ドイツの民族絶命政策の被害者であったが、ユダヤ人とは異なり、支援する国家や団体を持たないため、ロマに対する問題意識は大きく遅れ、西ドイツがロマに対するジェノサイドを正式に認めたのは、1980年代に入ってからである。定住が進みつつあるとはいえ、今でも差別の目は向けられ続けている。

「Komîna Fîlm a Rojava」は、シリア北部のクルディスタン西部にあるロジャヴァ自治区を拠点とする映像作家のコレクティブであるが(62)、《Lonely Tree》という2017年の作品では、公式な歴史には決して記録されないクルド系住民の歴史が、歌になって伝承されていく様が、人々の力強い声と軽快な打楽器からなる音楽と共に描かれている。エルドアン大統領の再選で、クルド系住民やその支持者たちに言論の自由はない。世界のどこでも不均衡な力関係下で、社会や国家のスケープゴートは生まれる。しかし圧倒的な力の差を前にしても、生き延びようとする声がある。

Installation view, Komîna Fîlm a Rojava, Fridericianum, photo: Mariko Mikami

こうした声の持ち主に耳を傾け、想像力を働かせ、個人の解像度をあげるには、どうしたらよいか。サバルタンの声を奪っているのはサバルタンと名付けた人々かもしれない。街をあるけば《躓きの石》と出会い、ホロコーストへの負の記憶を想起させる装置がインフラに組み込まれているこのドイツ社会で、ロマやロジャヴァなど犠牲者のヒエラルキーの下部に属する存在を想起するにはどうすれば良いのか(63)。反ユダヤ主義の撲滅が絶対的な価値観の地域で、それとは異なるイスラエル観を持つ被植民地の人々の存在をポストコロニアルの時流の中でどう考えれば良いのか。西洋型民主主義が当たり前でない地域の問題や、視点や関係性によって、犠牲者・敗者・弱者と、加害者・勝者・強者が入れ替わる両義的な問題について、いかに対話をしていくのか。何・誰を含め、何・誰を含めないのか、この線引きをするのは制度を構築し、決定権を持つ側であり、対象に含まれるのか、除外されるのを告げられる当事者たちではない。しかし、制度の外で、制度の言葉では回収できないような有機的で時に霊的とも言える繋がりや運動が生まれ、その土壌が独自に耕されてきたことは事実である。「アート」「キュレーション」「インスティトゥーション」など、あたかも共通言語のように使用されている言葉の背景にある、地域による系譜の違いを想像し、言葉が理論の奴隷になるのでなく、理論が想像力を解放するようにするには、どうすれば良いのだろうか。視点を複数化するアートは、一つであるはずがない。日本を含め、各地で乱立する国際フェスティバルやプロジェクトは、アートそのものをどう複数化できるのか。あちこちで起きている小さな運動の蓄積はやがて地殻変動を起こすかもしれない。その先に惑星レベルの政治を想像できるか。ドクメンタ15が突きつけたアポリアは簡単に解くことはできそうもないが、しかしそれは限りなく開かれている。

  • 63 —— 《躓きの石》プロジェクトの詳細はこちら

三上真理子(みかみ・まりこ)
東京大学総合文化研究科で比較文学比較文化を学んだのち、研究支援機関勤務を経て、現在はデュッセルドルフと東京、時々ベルリンを行き来しながら、近現代視覚文化のキュレーション、プロジェクトマネジメント、リサーチ、翻訳、執筆などさまざまな活動にたずさわる。近年のプロジェクトに「ミン・ウォン:偽娘恥辱㊙︎部屋」(ASAKUSA、2019年)、「オモシロガラ」(DKM美術館、2021年)、「Resonances of DiStances」(BOA/Kunstverein Leverkusen、2021年)、「ハイドルン・ホルツファイント:こんな今だから。」(ASAKUSA、2022年)など多数。

2023年6月30日 公開